いにしえの歴史と文化、花開いた城下町の風情が残る
 
 
 
 
西舞鶴は、天正8年(1580)に細川氏が築いた城下町・田辺として、発展してきました。
江戸時代には商港としても栄えたという商人町の面影を今に残し、山沿いに形作られた寺町の景観も健在です。
舞鶴の西地区を歩くと、今もそこかしこに息づいている、いにしえの歴史と文化を感じることができます。
 
安土・桃山時代の天正8年(1580)、丹後国は細川幽斎(藤孝)、忠興親子の領国となります。
細川氏は、現在の伊佐津川と高野川に囲まれた平野部に田辺城を築きました。
これ以後、田辺城は細川・京極・牧野氏の居城として約290年間、領内統治の中心的存在でした。
明治6年田辺城は廃城とされ、本丸付近は現在舞鶴公園となっています。
また、「舞鶴」の地名は、田辺城の別称「舞鶴城」(ぶかくじょう)に由来しています。
現在は、歴史資料館として、細川幽斎を中心とした歴代城主や、城下町・田辺の歴史を紹介しています。また、彰古館では「糸井文庫」の錦絵資料を展示しています。
 
舞鶴市田辺城資料館

舞鶴市字南田辺15−22
電話 (0773)76−7211

彰古館(しょうこかん)

彰古館には、市指定文化財「糸井文庫」の錦絵資料から「酒呑童子」、「安寿と厨子王」、「浦島太郎」などを展示しています。
彰古館(しょうこかん)  
   
細川幽斎(藤孝)
織田信長 足利義昭 明智光秀
   
 
細川藤孝(幽斎)を取り巻く時代の流れ
 
織田信長が近畿地方を征して覇を唱えた時代は、まさに近世への夜明けの時代でした。
それまでの室町幕府の政治や社会は、血筋や家柄が重んじられ、代々の家柄によって何の役に就くか決められていました。
ところが信長は、そのような家柄・門閥主義の人材登用を無視し、木下藤吉郎(豊臣秀吉)などの有能な人材を思い切って登用していきました。
従来の武士がもつ正攻法一辺倒の旧態依然とした感覚では、このようなある意味で得体の知れないような連中を取り込み活用するなど、到底及びもつかないことでした。
信長は、従来にないこの発想を実行し、隣国を攻略することで次第にその勢力を拡大していきました。
足利義昭を奉じて京へ上洛したことも、まさに信長の新しい発想でした。
柴田勝家や林道勝を始めとする尾張代々の家臣は、中央の政治を主宰することは難しいと考え、信長は旧室町府の家臣であった細川藤孝や明智光秀を登用しました。
この2人には学問があり、また朝廷や幕府の内情に明るかったことから、実務の上で必要な人材と考えたのです。
その後、明智光秀は、天下統一を目前にした織田信長を本能寺で討ち果たし、天下を治めようとしましたが、その目論見はわずか13日で瓦解しました。
その最大の誤算は、光秀の軍団に属し、縁戚関係をもつほど親交のあった細川藤孝・忠興父子の協力が得られなかったことです。
細川藤孝は、信長を討った後の光秀の誘いに一切応じようとしませんでした。戦国の世を生き抜くために嗅覚を研ぎ澄ませていた藤孝は、光秀に天下人の器量があるとは考えていなかったのです。
 
細川藤孝(幽斎)について    〜田辺城籠城と古今和歌集〜
 
細川藤孝は(幽斎)は、1534年、京都の東山で室町幕府の重臣 三淵晴員(みぶちはるかず)の二男として誕生。
実の父は、第一二代将軍足利義晴という。
幽斎は、荒々しい戦国の世に、ぬきんでた文人であり、武人でした。武家の棟梁(とうりょう)源氏の足利将軍家の正統の血をうけ、有力な幕臣細川家のあとを継ぎ、将軍の側近として27年にわたって幕府を支えてきました。のちの15代将軍足利義昭を松永勢から救い出し、将軍の座にすえて、8年間もり立てました。
この間の中央での経験が、情勢に明るく出処進退を誤らない彼の気質を作ったのでしょう。
こののち信長・秀吉・家康に従って忠勤に励んだことこそ武家の生き方に一生懸命であったことに他なりません。
また文人としては、49歳で隠居した後、20年の長きにわたって、文芸界の第一人者として旺盛な活動を続けました。
その分野は、和歌・連歌はいうまでもなく、太鼓・謡曲・乱舞・禅・料理・茶道・書道・鞠(まり)・有職故実(ゆうそくこじつ)と広く才能に満ちあふれたものでした。
関ヶ原合戦の前哨戦(ぜんしょうせん)として、石田三成方1万5千人の軍勢が田辺城を攻めました。
忠興率いる主軍3千程が関ヶ原で戦い、豊後(ぶんご)の国・杵築城(きつきじょう)では1千の兵が戦うなど、この時期細川家は4つの戦場で戦っていました。
そのため幽斎の軍勢はわずか500人程度で峰山・宮津の城を焼き払い田辺城に籠城(ろうじょう)していました。
しかし幽斎は文芸界トップに立つ「古今和歌集」の秘事口伝(ひじこうでん)の伝承者(古今伝授)であったため、古今伝授の廃絶を憂慮した後陽成天皇は田辺城を囲む西軍の陣に勅使を送りました。
「幽斎は古今集の秘奥(ひおう)を伝え帝王のご師範で、神道・歌道の国師である、速やかに囲みを解くべし」
天皇の意向を知った西軍の諸将は大いに驚き、直ちに包囲が解かれたのは有名な話です。
幽斎は、わずかな手勢で52日間を小城に拠って戦い抜いたのでした。
 
 
 
変わらない悠久の時の流れの中に、和歌は言葉によって心の種を残していくものです。(そのように私の歌と心も残るならば有り難いことです)
   
田辺城籠城の最中、決死の覚悟を決めていた幽斎は、古今伝授を行っていた後陽成天皇の弟、智仁親王(ともひとしんのう)に対し、古今伝授証明書を書き送りました、そのとき添えられていたのが上の歌です。
 
細川ガラシャについて
 
聡明な美貌で知られた明智光秀の三女・玉は、織田信長の縁組取り持ちで、細川忠興と結ばれました。
しかし光秀謀反の一族であったため、忠興は離縁・幽閉という形で領内の山奥深くにかこまいました。
これは、忠興が玉を守ろうとする苦肉の選択あったに違いありません。
玉は、2年後、秀吉に許されて、再婚の形で細川家に戻りました。
関ヶ原合戦の折り大阪の細川屋敷にいた玉は、夫の命にに従い西軍の人質にとるという命令に死をもってこたえました。
このことは、婦徳(ふとく)の鑑(かがみ)と称えられ、世間の同情は細川家に集まったのです。
細川ガラシャ  
 
 
まいづる田辺城まつり
 


   
 
 城下町田辺の歴史と文化にスポットをあてた祭。武者行列、伝統芸能などが繰り広げられます。

第16回まいづる田辺城まつり
    2007年5月27日(日)
     場所:舞鶴公園・公園通り・明倫緑地、西地区市街地
    主催:まいづる田辺城まつり実行委員会

                    0773-75-0933